ゴキブリメンタル

ぼっち耐性のステータスがカンストしている僕のメンタルは、以下の条件によって、幼稚園〜小学校の時に概ね育まれていたように思う。

 

 

 

・生来のヲタク気質、没頭気質

・海外暮らしから帰国して幼稚園に入ったので、「自分は周りと違う育ち方をしてきた人間だ」というのが当たり前の意識としてインプットされていた

・(多分)精神年齢が早熟で話の合う子が少なかった

・中学受験をきっかけに放課後に同級生と遊ばなくなり、小学校内で友達が減った

・当時読んでいた本の影響で、「卍周りを気にしない孤高の存在カッケー卍卍」という思想に目覚めたこと

・自己肯定感が無駄に高いので、友達がいなくても自分で自分を愛せるので友達を増やそうとしない

 

一度そうなると、

ぼっち耐性がつく→1人でいることを厭わなくなる→さらにぼっち耐性が強化される

という無限ループに陥りることでぼっち耐性は強化されていく一方である。

 

ぼっち耐性があること自体は全く困らないどころか喜ばしいことではあるのだが、それが行き過ぎると人から嫌われることにさほど抵抗がなくなってしまうのは否めない。

 

 

ここ数日、駒場祭などもあり、ためらいなくほうぼうからドン引きされてもおかしくないような言動を撒き散らしていていることを自覚したことがきっかけで、嫌う嫌われるということについて思索を巡らせるに至り、このページが誕生した。

 

 

 

 

2ヶ月放置してきたのに重い腰を上げてまでわざわざ書きたかった結論が何かと言うと、嫌われるより嫌う方がはるかにキツイ、ということだ。

 

 

 

 

 

 

はっきり言って中高は(僕から見ると)お花畑だったので、嫌ったり嫌われたりする機会自体あまりなく、こんなことを考えることもなく、「人のこと嫌いとかいうの不合理だしアホじゃね?」程度にしか思っていなかった。

 

 

大学に入ってから、多分どちらの機会も少なからず発生し、嫌うということについて考えざるを得なくなった。まあ嫌われることに無頓着なのは元からなのだが、嫌うことの大変さはつくづくと感じた。

 

さて、嫌いな人がいると、そいつが話しかけてきたり、もしくはそいつが視界に入ってきたり、さらに行くとそいつがこの世に存在しているということに対して不快な気持ちになって飯が不味くなることになる。

凄まじいコストだ。得るものが無さすぎる。

 

 

それに対して、人から一方的に嫌われていたとしても、自分はその相手のことをなにも悪く思っていない風に(実際そうなので)あくまで普通に接すればいい。相手は勝手にさぞかし不快な気持ちになるのだろうが、自分にとっては痛くもかゆくもない。

嫌われた結果嫌がらせを受けたり危害を加えられたりするのは困るが、もうこの年齢になればよっぽど嫌われていてもそこまであからさまなことをしてくる人はまずいないし、もしいたとしたらそんなことをしたほうがドン引きされるだろう。

 

嫌われたらその相手からの親切な行いは期待できないかもしれないが、まあそれは自分がやりたいことをやれないデメリットと天秤にかければいい。それで後悔しないならまあ嫌われてもしょうがないんじゃないだろうか。

僕は「9割の人間から嫌われていても、好きでいてくれる残り1割がいれば楽しく生きていける」というのをモットーにして生きています。

 

 

まあ要するに、「人のこと嫌いとかいうの不合理だしアホじゃね?」という結論に戻ってくるのだが。

 

 

 

性格が合わない相手は、マジで嫌いになる前に近寄らないほうがいい。まだまだクソ長い大学生活を送る上では大事なライフハックとして心に留めておこう。

 

 

 

 

こーーんな長々と書いてきたけど、結局言いたいことはいたってシンプル

 

クラスのパーカーを買わなかったり集合に遅れたり、ツイッターで某企画を叩いたり揶揄したりしても、僕を嫌うことにはあなた方にデメリットしかないから、嫌わないでね!仲良く生きましょうや!